なぜ西郷隆盛は日本の「心」なのか?日本人が忘れた日本の精神

多くの日本人に愛され、多くの日本人に勇気を与え、多くの日本人に疑問を残した男、西郷隆盛

明治維新は西郷隆盛の改革であった。

何が西郷を動かし、西郷の何に我々は心動かされるのか。

もうすぐNHK大河ドラマ「西郷どん」が始まる。

日本の「心」、西郷の精神に迫ります。

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幼少期:命を捧げるべきものを知る


出典;Girls Channel

西郷隆盛は1828年に鹿児島城下で生まれました。

幼少期は小吉と呼ばれており、吉之助を含めた幾つかの名前を経た後、最終的な名前として隆盛を名乗ります。

親友であり、後に西郷とともに維新最大の功労者となる大久保利通は、西郷から2年後に近所で生まれています。

西郷は男4人、女2人の6人兄弟の長男として成長していきました。

子どもの頃から体が大きく、また目も大きくぎょろっとしていたため、周囲の人から「うど(大きな目という男)」というあだ名で呼ばれていたようです。

それ以外には特に目立つ点はなく、どちらかというと愚か者として通っていた少年西郷ですが、ある時、生涯忘れることのできない出来事を目の当たりにしました。

遠縁の者ではありましたが、切腹する姿を見たのです。

そして、腹に短刀を突き入れる直前、少年西郷にこう諭しました。

「命は主君と国の大義のために捧げよ」

このことは、生涯西郷の胸に刻まれることとなりました。

西郷隆盛の精神を形成した、最初の一歩です。

大和魂の塊、藤田東湖との出会い


出典;PRIDE OF JAPAN

あまり聞きなれないかもしれませんが、青年時代の西郷に大きく影響を与えた人物の一人に藤田東湖がいます。

藤田東湖の詳細については端折りますが、ひと言で表すなら「大和魂が凝縮された人物」と言えるでしょう。

西郷が東湖に出会ったのは26歳の時。

初回の訪問から西郷は感銘を受け、その後幾度となく東湖の元に足を運ぶことになったようです。

西郷は東湖の印象を次のように書いています。

「先生(東湖)のお宅を伺った時は、まるで清水を浴びたような気持ちになり、心中一点の雲霞もなく、ただ清浄な気持ちとなり、帰り路まで忘れてしまうほどです」
出典;『西郷隆盛全集 第一巻』より抜粋 (現代語訳 by tsubu氏)

藤田は安政の大地震によって、55歳でその生涯を閉じましたが、後に西郷は藤田についてこう述べています。

「天下に恐れるべき人物はいない。それはただひとり、東湖先生である」

まさに西郷にとって東湖は、「精神の師」でした。

西郷にとっては、同時代、優れた大和魂を有していた吉田松陰以上だったのかもしれません。


出典;co-media

吉田松陰は、大和魂を示す詩をこう残しています。

かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂

(訳)このようなことをすれば、このような結果になることを十分承知していながら、止むに止まれぬ気持ちから行動に踏み切った。これこそが日本人の魂なのだ。

身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留置まし大和魂

(訳)この身はたとえ武蔵野地に朽ち果てようとも、日本を思う魂だけでも、この世にとどめて置きたい

2番目の詩は辞世の句(人生最期の詩)ですね。

この吉田松陰の大和魂に匹敵すると、西郷は東湖を評しているのですね。

西郷の日本を想う精神はこの時期、固まったのでしょう。

友に対する友情、月照とともに、、、


出典;面白きこともなき世を面白く

藤田東湖との出会いを経た後、西郷は討幕運動に身を投じます。

そしてこの頃の僧侶・月照とのエピソードは、西郷にとって重要な転機あると同時に、彼の最期を予表するかのようでした。

西郷は討幕に熱心な月照を終始保護していましたが、ある時から徳川方の追求が激しくなり、月照をかくまい切れなくなりました。

かくまい切れなくなった月照に対して、西郷は「共に死のう」と月照に持ち掛けます。

日本を想う2人の同士は、月夜の晩に海に出て、、そのまま身を投じます。

水しぶきの音に気付いた仲間により、暫くしてふたりの体は引き上げられました。

月照は息絶え、、西郷は息を吹き返しました

西郷はこの時のことを後々まで非常に恥じていました。

共に死ぬことができなかった申し訳なさ、友を救うことのできなかった悲しさもあったことでしょう。

しかしそこに至る過程において、西郷が、

「友に対する友情と誠意の証しとして自らの命さえ惜しまなかった」
出典;代表的日本人

人物であることは疑いのないことでしょう。

日本を真に想う男は、友に対しても誰も真似できない仕方でその友情を示したのでした。

この一件により、西郷の志が世に知れ渡ることとなります。

しかし、西郷隆盛、破滅への序曲でもありました。

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征韓論を巡り対立。文明と正義


出典;週刊マンガ日本史 vol.77 朝日新聞出版

時は1873年のこと。

西郷らの活躍で江戸城は無血開城され、政治の中心は徳川家から天皇に移り、近代化に向けて日本が駆けだそうとしている、そんな明治6年のことでした。

江戸と明治では世の中の仕組みが大きく変わったため、恩恵を受けた者もいれば、不利益を被った人々も出てきました。

とりわけそれまで特権階級とされていた、武士の身分が大幅に低下したのです。

四民平等の元、特権は廃止され、秩禄(武士達の給与)は無くなり、刀を持つこともできなくなったのです。

明治の新政府にとって、西欧近代化にあたり武士の身分は不要となったのでした。

これに対し、士族からは大きな反発が起こります。まぁ当然ですよね。

さて、この反発を痛い程感じていた人物が、明治政府の中枢にもいたのです。

薩摩の武士出身の西郷隆盛でした。

西郷が「征韓論」を唱えた理由は主に2つと言われています。

ひとつは、日本を東アジアのリーダーとすべく領土を拡大するため

そしてもうひとつが、士族に活躍の場を与えるため

です。

当初、西郷の決死の主張が功を奏し、閣議でGOサインが出され、あとはその発令を待つだけ、というところまでいきました。

ところが、、


出典;週刊マンガ日本史 vol.77 朝日新聞出版

時同じくして、欧州を視察してきた岩倉具視、大久保利通らが帰ってくると事態は一変します。

海外視察を経て、内政強化を最優先にすべきと判断した大久保らは、あらゆる権謀術策を用いて閣議決定を全て覆し、ついには「征韓論」をもみ消したのでした。

終生の親友、西郷隆盛と大久保利通の袂が分かたれた瞬間でした。

この時の大久保らのやり方に対し、普段はめったに怒ることのない西郷が、怒り狂ったともいわれています。

決定が覆ったことよりも、決定が覆るに至るやり方とその動機に、政府の腐敗を感じ取ったのでした。

そしてこう述べています。

「文明とは正義が正しく行われることであり、豪壮な邸宅や華美な衣装、外観を飾り立てることをいうのではない」

西郷の目から見て、明治政府は外見を繕うあまり、大義を見失っていたのでした。

西南戦争。西郷は何と共に散ったのか?


出典;週刊マンガ日本史 vol.80 朝日新聞出版

西郷隆盛の最期である西南戦争については多くを語るまでもないでしょう。

西南戦争自体は西郷が計画したのでも、陣頭指揮をとったのでもありませんでした。

西郷にとって新政府は不満の対象でこそあれ、ただの怨恨で戦争を仕掛けることは正義にはなりえませんでした。

しかし西郷にとって不運だったのは、新政府に不満を持つ士族にとって、西郷は大義であり、象徴であり、支えであったことです。

西郷が正義の無い戦いと士族の痛みをどの程度天秤に掛けたかはわかりません。

しかし、月照の時と同じように、自分を慕う人たちに対する友情の証として、命と名誉と自分の全てを西郷は投げ出したのでした。

西郷は正義を貫くことを幼少期から何よりも大事にし、生き様はまさしくそのものでした。

西南戦争。

それは西郷の情の脆さの結晶だったのでしょうか?それとも、正義よりも大切なものがあることの体現だったのでしょうか?

今なお、評価が分かれるところですね。


出典;週刊マンガ日本史 vol.80 朝日新聞出版

おわりに

今回は西郷隆盛の「心」について紹介しました。

古臭くて今の時代には合わないと感じるでしょうか?

もしかしたらそうかもしれません。

しかしながら、この西郷の気高い精神、高い志、自分の死をも厭わない友への友情があったからこそ、明治への転換が成しえたのではないでしょうか。

内村鑑三は次のように述べています。

たしかに西郷の同志には、多くの点で西郷に勝る人物がいました。経済革命に関していうと、西郷はおそらく無能であったでしょう。内政については、木戸や大久保のほうが精通しており、革命後の国家の安定をはかる仕事では、三条や岩倉のほうが有能でした。今日の私どもの新国家は、この人々全員がいなくては実現できなかったでありましょう。
 それにもかかわらず、西郷なくしては革命が可能であったかとなると疑問であります。
(中略)必要だったのは、すべてを始動させる原動力であり、運動を作り出し、天の全能の法にもとづき運動の方向を定める、西郷隆盛の精神であったのです。
出典;代表的日本人

NHK大河ドラマ「西郷どん」では、西郷隆盛の「心」はどのように描かれるのでしょうか?

楽しみですね!

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